結論は「自由に見えるアートの世界でさえもヒエラルキーがあるから」ではないか。
私は美術の専門教育を受けていないので、美術や工芸にヒエラルキーがあるとは知らなかった。
この本を読んでいて、美術(絵画や彫刻)に比べて工芸(陶芸など)の方が立場が低いということが書いてあった。
それは美術に関わる方々が権威を示すために明治時代に作ったヒエラルキーであると。
またこの本は手芸の歴史や立場を分析する内容だったので、刺繍やコラージュなど、誰かが作ったものをアレンジする行為はさらに格下であるとも考察されていた。
一般人が見ると刺繍もコラージュも美しく価値があると感じることもあるが、見る人、特に専門家にとってはそうではないらしい。
包装紙などをふんだんに使ったせなけいこの絵本も私から見たら素晴らしく感動的なものだ。
それは「格下のものを作ることで相対的な地位の向上を図る概念形成」。
美術界とはなかなか恐ろしいもののようだ。
脱線するが、和服・着物を習っていてずっと納得いかなかったのが、家紋を着物に入れるときに、
布を染めた後に家紋を刺繍をするよりも、布を染めると同時に家紋を染めて入れた方が価値がある、ということだ。
要は誰かが作ったものに手を入れた作品より、素材そのものを使った作品のほうが尊いということなのかと合点がいった。
作品が材料素材に近い方が尊い(一次)、誰かの作ったものに手を入れる(二次、三次…となる)と価値がどんどん落ちるという意味らしい。
そういった状況をAIアートを照らし合わせると、確かに一般的なデジタルアート(ブラシで1から描いた)に比べると価値が低いと感じる方もいるのだろう。
(じゃあ一般的なデジタルアートは、絵師がブラシを1から作ってるわけでなく、背景も…どこまで素材に近い一次とするかは微妙であるが)
AIは美術界で言えばコラージュに近い、手芸的に思われているのかもしれない。
AIアーティストが作品を「美術」ではなく格下の「手芸」と例えられた場合に難色を示すかもしれないので、一旦申し訳ないと謝りますm(_ _)m
ただアートと一言でいっても相当な差別があり、そもそも伝統的な美術を好む方はデジタルアートすらも認めないだろう。
人は無意識のうちに一般人でも評論家になって、いい悪いを判断しがちだ。
デジタルよりもアナログが至高の方もいると思うし、AIの存在すら許せない方もいるだろう。
ただAIが便利な道具で使うことで表現が広がり、まず作る人が満足ならそれがまず一番大事なのではないかと思っている。
今の話で一区切りなのだけど、AIが「安直」という考え方もあるのかなと思った。
人は安直なものが嫌いだ。料理でも冷凍食品よりも手作りの方が良いとされるし、麺つゆでの味付けは邪道だと言われる。
冷凍餃子は手作り餃子に比べて安直で悪か?
工場で作ったからか?手を抜いてるように見えるからか?家庭によって違いがある方がおもしろいのか?文化が継承されないからか?愛を感じられないからか?
(AIアートを冷凍餃子に例えたわけではありません)
ただ単に「パッと結果が出る安直な方法が嫌いな勢」がいるだけだと個人的には思っている。
(AIアートも個性があると私は理解しているつもりです)
NFTの世界ではデジタルアートが主流なので、まずPCやiPadなどのペイントソフトで描くことを嫌う人はいないだろう。
しかし現実はデジタルなんて安直で、紙に筆(100均じゃない道具)で描くことを至高とする人は多くいると思う。
しかしデジタルアートも書き込みによってはアナログ作品以上に時間はかかるし、作品が単純に見えても作者の世界が唯一無二であれば評価は高くなるだろう。
想像ではAIアーティストは「これはAIを使って作った作品ですよ、すごいでしょ!」とAI使用をことさら主張したいわけじゃなくて、「私の作品、すごいでしょ!」なのだと思っている。
(違ったらすみませんm(_ _)m)
なので作品に「AI使用」と書かなければならない風潮は気の毒だなと勝手ながら思っている。
とはいえ何か「手がかかってる感」を大事にする方もいる、愛ある手作り料理が大切だと思う人がいるように。
だからAIの緻密な描写を「人が丁寧に描いた」と思って買い、騙されたと怒る方が出てきてしまう。
「AIかAIじゃないか」にこだわる人は「AIじゃない手描きのイラスト」が好きなだけだ。
そこからAI批判になるのはおかしくて、少し行き過ぎたことではないかと思う。