2021年1月、NFTアートで世界を制覇しようと意気込んでいた私。
その1年後、自分が作っていたのは単なる「おかんアート」ということに気づいてしまった。
メインストリームのファイン・アートから離れた極北で息づくのがアウトサイダー・アートであるとすれば、正反対の極南で優しく育まれているアートフォーム、それがおかんアート。その名のとおり「お母さんがつくるアート」である(正確には「おばあさん」だけど)。
Museum of Mom’s Art
例えば、古いタバコ屋のレジ下の陳列棚のスキマを埋めるように置いてある、タオルの犬や軍手人形。
おそらく近所のおばさんとしゃべりながら作ったであろう。またはもらった貧乏くさい小物。
ああいうのを総称して「おかんアート」というらしい。
「おかん」NFTアートを出すことに意味があるのか

自分の話に戻すと、NFTアートを知りiPadでイラストを描き、作品に値札をつけて1年。
今の感想はというと「私はなにをやっているのか」である。
NFTを売るためのノウハウ本はたくさんあり、それを真似するクリエイターはたくさんいる。
例えば
- 作品を完売状態にして売れてることをアピールする
要は自分が売れていて、投資的価値のある、つよつよ絵師であるオーラが必要だ。
とはいえNFTを売ってみてわかるのが、そんなに順調に売れないということ。
売れないと心も折れるので結局のところ続ける人は一握りである。
私も売れないので心を折りながら不思議と筆は折らずに続けられて、それはなんだろう、「おかんアート」なのかと気づいた。
おかんアートは自己実現

おかん、というのはおとんに比べると行動や思考に制約がある。(と思う)
家族の予定をカレンダーに書き込み、調整し、みんなが食べるか食べないかわからない食事を作り、家に誰もいない時間に掃除する。
憂さ晴らしに夜に飲みに行くことも躊躇する。
自分の部屋もない。
家族が暮らす居間や茶の間、夫の書斎や子供部屋があっても、主婦のプライベートスペースが考慮されてこなかったのが、日本の住宅史の一面でもある。おかんアーティストにとっての制作空間は夕食が終わったあとの台所の食卓や、居間のテーブルなど、「なにかを片付けた場所でつくる」のが通例だ。
Museum of Mom’s Art
令和の時代であっても想像以上におかんに制約がある(と思う)
昼間のちょっとした時間でできること、夜中家族が寝静まってできること、それがおかんアート。
自分がiPadで描いてるものはおかんアートだったんだな、と合点がいった。
都筑:ストレス解消でつくるというのとはちがうわけですね。
Museum of Mom’s Art
山下:私は自己実現やろうなと思いますけどね~。
この引用元の本はおかんアートとその作者がまとめられていて、最後に著者と神戸のおかんアート調査グループの対談がある。
(著者はおかんアートの研究者ではなく、日本の面白いものを調べる研究者なので、おかんアートを客観的にまとめている点が読みやすい)
この対談で一瞬戸惑ったのが、おかんアート調査グループによると、おかんアートを作るのは職業婦人(仕事を持ってる女性、主におばあさん)の方が多いとある。
すると、自分のようなヒマを持て余した主婦ではないのか???と一瞬不安になった。
でもバリキャリがおかんアートは絶対しないよなとも思ったし、私の祖母は専業主婦だったけど、宅急便に必ずしじみの貝殻に千代紙を貼ったような手製のキーホルダーのような定番おかんアートを入れていた。
(この本では神戸という地域の特性上、おかんアートをする人が職業婦人であることが多いかもしれないと分析もしている)
考えてみると、おかんアートの材料の価格帯、新聞や不用品を使うマインドを考えると、決して裕福なおかんが作るものではない。
おそらく専業主婦であっても富裕層ではない、私も含まれるだろうと思い少し安心した。
喪失感を埋めるおかんアート
おかんアートは自己実現、例えば家事育児、働きながら隙間時間に作るだけでなく、喪失感を埋めるものでもあるとあった。
事例として東日本大震災で地縁も仕事も場所もすべて奪われて、有り余る時間を制作に振り向ける方も多くいる。
そういった大きな災害がなくても、ある日ふと気づく「私、今、なにしたらいいの」という時間。
そういった虚無感あふれるジャストタイミングで、祖母から10分で作れるビーズキットが郵送されてきたら、うっかり作るかもしれない。安全ピンに大きめのビーズを通すだけの単純でダサいデザインだったとしても。
完成したら写真を送るだろう。
それが私にとってはkindleで読んだNFTアートの作り方の本で、持て余していたiPadを再利用してエコにお金をかけずに作った作品をOpenSeaで出品した。おかんアートと同じ文脈ではないだろうか。
PFPとおかんアートの類似点

PFPはTwitterなどのアイコンにするための画像のことで、NFTアートを始める多くの人はPFPから入る。
NFTアートを知る、本を読む、テーマを決めて作品を作る、2作3作とアレンジしながら作る。
この一連の流れはおかんアートとほぼ同じである。
作り方を教えてもらい(キットを買い)、作り方がわかればあとはひたすらアレンジをし量産する。
しかしNFTアートのキツい部分は値札をつけるため、売れないときはかなりこたえる。
でもOpenSeaへの出品を、おかんアートを玄関に置くのと同じ行為と思うと、少し気持ちが軽くなった。
おかんアートだって「かわいい」って言ってもらえることがある。褒められたらあげたくなっちゃう。褒められなくてもあげちゃう。
3回目のNFT Free mintで100枚のNFTを無料で配り終えて私は、おかんアートの存在価値を真に知った。
自己満足だけど作りたい、そしてできれば誰かを喜ばせたい。
私が1年かけて作ってきたものはおかんアートそのものだった。
プロみたいな作品は作れんな~

とはいえ、おかんアートに否定的な考えの方も多いだろう。
ダサい、下手くそ、不用品。
Twitterで「投資的価値のないNFTに意味はない」というツイートを以前見かけたことがあり、そのときは心が震えた。
確かに作品をNFTにすることで金銭的な価値が付随することに間違いはない。
ただ、その価値を決めるのはまず自分であり、人にとやかく言われる筋合いはない。ユニクロのセーターだって売れ残る。
しかし価値を決めた自分でさえも心が揺らぐのは「売れない≒評価されない≒不要」といった気持ちになるからだろう。
このあたりは繊細な人ほど悩むと思うし、(見た目に)つよつよ絵師でさえも弱気な発言することがあるので誰にとっても壁だろう。そして今悩んでいる方にかける言葉は難しい。
私の場合は「おかんアート」という言葉を知ったことで「プロじゃないからしかたないな!」と振り切って図々しく作品を出すマインドを得た。
「私、プロみたいに作品描いてます!」「売れてる作品です!」とアピールする時期もあったけど、作品見れば実力がわかるし、そもそも実績はない。
季節にこびても、イベントにこびても、人にこびても売れないときは売れない。
とにかく今は描く時間を見つけて、自分の好きな作品を、魂をもって作り続けるしかないし、何も浮かばなくなったら辞めると思う。
NFTアートを個人が描くときの入口に「稼げる!」の文字があることが、良いことか悪いことかわからないけど、「おかんアート」だと思えば少し気楽になれるんじゃないかという結論です。
この本はどうしようもないおかんアートに見えても、人が考え、学び、続けて作っていることがよく伝わる良書です。
※画像は版元ドットコムより